地下鉄・名城線 西高蔵駅→高蔵遺跡(高蔵古墳群)→高座結御子神社→断夫山古墳→白鳥古墳→法持寺→熱田神宮
地下鉄・西高蔵駅出口から地上に出て、スポーツ・クラブ横の細い道を東に進むと、正面に高蔵公園の木立が目に入ります。「高蔵遺跡」は、この公園の一画にあります。縄文・弥生時代から鎌倉時代までの遺跡であり、古墳については、5世紀後半から6世紀前半に造られた小型の方墳や6世紀後半に造られた複数の円墳が点在しています。現在はいくつかの古墳が墳丘の一部を残すのみで、その姿をよい状態で見ることはできませんが、発掘調査ののち、石を敷いて墳形を表すことでその墳丘の大きさを示す工夫がされています。このうちの1号墳は、複室構造の横穴式石室であったそうですが、調査後墳丘は取り壊されてしまったそうです。また、この古墳からは、人骨・直刀・玉類・土師器・須恵器など多数が出土しました。
高蔵公園には、子供用遊戯が設備されており、訪れた時には、子供たちの元気な声が流れていました。
高蔵公園に隣接し、木々に覆われた区画は「高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)」の境内です。この神社は式内社であり、熱田神宮の摂社(祭神が熱田神宮の祭神と縁が深い神社。)です。建物は、本殿・幣殿・拝殿が縦に配置され、拝殿が翼廊でつなげられている「尾張造」です。境内には、幼児がのぞき込むと、「疳(かん)の虫封じ」の効能があるという井戸もあります。先に述べた円墳は、この神社の敷地内にもあり、墳丘の残りがよい古墳もあります。
参拝を終え、再び国道22号にもどり南下します。まもなく、右手に愛知県下最長の前方後円墳である「断夫山古墳」の前に出ます。古墳時代後期の6世紀前半に築造されており、前方部が後円部よりも高い特徴を持っています。墳丘の西側には、造り出しが設けられており、ここから多くの須恵器が出土しています。また、墳丘には、円筒埴輪が樹立し、葺石が確認されています。
これだけの古墳ですので、副葬品が考えられますが、埋葬施設を含めて明らかではありません。被葬者は尾張氏との関連がある人物でしょうか。なお、この古墳は、管理事務所に声を掛ければ、中に入り墳頂に登ることができます。
古墳を一回りし、国道を南下します。熱田神宮に向かう途中で、細い道を右に廻ります。名古屋城築城に利用された堀川にぶつかる少し手前左側に大きなお寺の屋根とこんもりとした森が見られます。「白鳥古墳」です。
「白鳥」の名前から日本武尊が連想できますが、ここには、以下のような伝説があります。
伊吹山で毒蛇の毒気を体にうけた日本武尊は、伊勢・能褒野(のぼの)で亡くなります。そして能褒野に葬られた陵から、一羽の白鳥が飛び立ち熱田のこの地に降り立ったという
古墳は6世紀に築かれた前方後円墳で、墳長は70m、後円部が径45m、前方部は長さ30mとなっていますが大きく削られ、石柱と木々に覆われて当時の形を見ることはできません。副葬品は勾玉・管玉などの装身具、六鈴鏡、鏡板・杏葉などの馬具・武器・須恵器などの図面が残っています。
古墳と隣接して「法持寺」という由緒のあるお寺があります。 西暦830年前後に熱田神宮を参拝した空海が日本武尊を敬って延命地蔵を彫って小さい祠を建立した由緒があります。現在は、曹洞宗の寺院です。
織田信長が桶狭間の戦いの必勝を祈願して、この寺から戦場に向かったとの伝説もあります。
新しくは、大相撲名古屋場所開催時には、三保ケ関部屋の宿舎となり、横綱・北の湖が稽古に励んだ場所でした。境内には、横綱になった時に、北海道にいた母親に送った時の口上が彫られた石碑が立てられています。「うん ほんまに横綱になったんや 母ちゃん」 現役時代を知る皆さんには、あのぶっきらぼうであった横綱の知らない内面を知ることでしょう。
法持寺を辞し、熱田神宮に向かいます。国道22号の西側には、あまり知られていない「源頼朝の生誕地」の寺である請願寺があります。昔を偲ぶものはありませんが、山門横に建てられた「右大将頼朝公誕生旧地」の石碑が目印です。
「熱田神宮」の西門から、熱田神宮を参拝して終了です。ご希望があれば熱田神宮内のガイドもできます。