「奈良の古墳探索_その8」 2024年4月9日

 「古代天皇の宮都」をたどり、小雨の中、初瀬(はせ)、朝倉を訪ねました。まず近鉄長谷寺駅から出雲地区へと西向きに初瀬街道(伊勢街道)沿いに歩いていくと、7代の神世(かみよ)の神と5代の地神を祀る十二柱神社に到着。そこには悪行を重ねたといわれる第25代武烈天皇の列城(なみき)の宮伝承地の石碑と野見宿禰の五輪塔も。武烈は仁徳皇統の最後といわれています。

 

次に初瀬川沿いに朝倉に向って歩いていくと黒崎地区へ。このあたりは稲荷山鉄剣銘で斯鬼(しき)宮と記され、倭王武といわれている第21代雄略天皇の泊瀬朝倉宮跡があったと伝えられています。春日神社手前では雄略天皇による万葉集冒頭の歌が石碑になっていました。雄略は空恐ろしい性格を持つ反面、この歌のように大らかな表情を披露することもあります。また、雄略の穏やかな別の歌や人麻呂の歌も見かけました。


     ()もよ み籠持ち

    掘()(くし)もよ み掘串持ち

    この岳(おか)に 菜摘ます児

    家聞かな 名告()らさね

    そらみつ 大和の国は

    おしなべて われこそ居れ

    しきなべて われこそ坐()

    われこそは 告らめ 家をも名をも  (巻1-1

(訳)籠よ 美しい籠を持ち 

    箆(へら)よ 美しい箆を手に 

    この岡に菜を摘む娘よ 

    あなたはどこの家の娘か 名は何という 

    そらみつ大和の国は 

    すべてわたしが従えているのだ

    すべてわたしが支配しているのだ

    わたしこそ明かそう 家がらも わが名も  雄略天皇

     


 

 夕されば 小倉の山に 臥す鹿の よひは鳴かず ねにけらしも (巻9-1664) 大泊瀬わかたけ天皇―雄略 

 

 [土形ひちかたの娘子をとめを泊瀬山にやきはふりし時に柿本朝臣人麿の作れる歌一首]

隠口(こもりく)の (はつ)()の山の 山の()に いさよふ雲は 妹にかもあらむ  (巻3-428) 柿本人麻呂 

 

 昼少し前から風が強くなり昼食休憩をとることにし、三輪そうめん(一筋縄店の吉野葛入りにゅうめん)をいただきました。

 食後、近鉄大和朝倉駅を南下すると忍坂(おっさか)古墳群に。ここは団地造成に伴い、周囲の土ごとこの地に移築された所です(1289号墳)。9号墳は7世紀中葉築造、そこにはレンガ状の榛原石を積み上げた磚積式の横穴式石室が。

 次に第29欽明天皇の磯城(しき)の金刺(かなさし)の宮跡へ。ここは北には三輪山、南は鳥見山、その麓を初瀬川が流れ、初瀬川は下って大和川となり、難波津に至ることができます。その先は朝鮮半島でしょうか。次の歌2首が置かれていました。人麻呂の歌は上の歌もそうであるように、心の奥をのぞかせるものがあります。

 

 

 

 


 島の 日本やまとの国は ことだまの たすくる国ぞ まさきくありこそ (巻133254) 柿本人麻呂歌集

 (磯城島の日本の国はことばの魂が人を助ける国であるよ。無事であってほしい。)

 

泊瀬川 速み早瀬を (むす)び上げて 飽かずや妹と 問ひし君はも (巻112706

 (泊瀬川の早瀬の水を手にすくい上げて、「飽くことはないか妻よ」と言問いをしたあなたよ。)

 

 さらに初瀬川に沿って歩くと、海石榴市(つばいち)に。海石榴市は交通の要所であり、多くの老若男女が集まり、「歌垣」などの行事が催されました。仏教伝来地碑もあり、大和川沿いには次のような三輪川の歌も見かけます。

 

 夕さらず 河蝦かはづ鳴くなる 三輪川の 清き瀬のを 聞かくししも      

                                   (巻102222 

 (夕ぐれごとに河蝦が鳴く三輪川の、清らかな川瀬の音を聞くのはよいことよ。)

 


 慈恩寺と呼ばれるあたりの大神神社の摂社の玉列(たまつら)神社で、ばったり若いお坊さんに出会いました。実はこのかたとは、その23時間前に十二柱神社でお目にかかったばかりで、不思議な邂逅(人生はめぐり逢いの一齣)でした。若き僧侶は子供たちに習字を教えに行く途中とのこと。

 風がかなり強くなってきたため、仏教伝来地の石碑を最後とし、予定していた崇神天皇の瑞垣(みずがき)の宮跡は省略し、桜井まで歩き大和八木経由で名古屋まで帰ってきました。

 なお万葉歌は『万葉集(一)~(四)全訳注 原文付』中西進(講談社文庫)で確かめています。 

 (地名や人名などがわからなくなると、いつものように検索に頼ってしまいました。) 

今回、新生イケメンクラブには長年の山歩きで鍛えた健脚の持ち主が、新しくメンバーに加わりました。