近鉄大和朝倉駅から、段ノ塚古墳、赤坂天王山古墳、崇峻天皇陵をかなりの雨の中巡りました(2024年10月29日)。ぜひご覧ください。
多少道に迷いながらも、駅から南へ外鎌山(忍坂山)と鳥見山の間を行くと、段ノ塚古墳(舒明天皇押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)、7世紀中頃)に到達します。天皇陵として最初の八角墳です。ただし3段の方形壇の上に、2段の八角墳(対辺間42m)。傍らの小川には次の万葉歌碑が。
秋山の樹(こ)の下がくり逝(ゆ)く水の 吾(われ)こそ益(ま)さめ御(み)思ひよりは 鏡王女 (巻2-92)
(秋山の木の葉がくれに流れる水のように、姿は見せまさずとも、(天智)天皇がお思い下さる何倍かを、私はお慕い申し上げることでしょう。)
谷の近くには、鏡王女墓や大伴皇女墓もあります。御陵前でベテランの陵守さんと立ち話。「古墳の周囲はぬかるんで滑りやすいので危険」とのことで古墳周遊を断念。
段ノ塚陵守の机に山葡萄 (詠み人知らず)
次に小高い丘のふもとで、鹿や猪除けのフェンスを開いて中に入ると、横穴式の赤坂天王山古墳(6世紀後半)が見つかります。穴の入口が狭いため、実際には中にはいりませんでした。
進んでいくと大きな倉橋溜池が見え始め、しばらくすると屋根付き(雨は降り続いています)ベンチを見つけ、そこでいよいよお昼御飯です。近くの道にはまた万葉歌碑がありました。
大君は神にしあれば真木(まき)の立つ 荒(あら)山中に海をなすかも 柿本人麻呂 (巻3-241)
(大君は神でいらっしゃるので、真木しげる荒々しい山中にまで海をお作りになることよ。)
「海」とは湖のことです。
そして、崇峻天皇陵 倉橋岡上陵に到着。ですが現在は先の赤坂天王山古墳の方が崇峻天皇陵とみなされています。悲劇?の天皇と言われている崇峻天皇の陵を出てすぐ我々の前を蟹がゆっくり横切って行きました。
行く秋や蟹の来て泣く崇峻陵 (詠み人知らず)
最後の目標は、聖林寺です。観音堂に安置されている穏やかな顔つきの、国宝 十一面観音菩薩像(写真はパンフレットより)を拝観したあと、入り口手前の万葉歌碑をあらためてながめました。
椋(くら)橋の山を高みか夜ごもりに 出で来る月の光ともしき 間人宿祢(はしひとのすくね)大浦巻3-290)
(倉橋山が高いので夜の闇の中に出て来る月が遅く、光のともしいことよ。)
体調不良で今回参加できなかった我々のクラブのメンバーの健康を願って「聖林寺のお守り」を購入後、拝観してきたみ仏のお顔を思い浮かべながらキバナコスモスの咲く坂をゆっくり降りてきました。
キバナコスモスへ辞し聖林寺辞せりけり
(詠み人知らず)
さて『古事記』の物語(女(め)鳥(どりの)王(みこ)と仁徳天皇の使者としてやってきた速(はや)総(ぶさ)別(わけ)王(のみこ)の二人が一緒になっても、倉椅(くらはし)山(現在の音羽山)に逃げざるを得なくなった話)に思いを馳せると、犬養孝のことば「雲の動きに見とれ、速総別王と女鳥王とが手に手を取っての逃避行を思ったり、あの山のうしろが、宇陀の阿騎野だなと思ったりする。」(『万葉の旅』)を思い出します。
雨に煙る中、奈良の山々の山頂付近はあたかも雲海に浮かんでいるように幻想的に見えました。
山霧の二上を遠き山とせり (詠み人知らず)
新生イケメンクラブ(文:Yoshia. O. 句:メンバーの一人)